明治新政府の「欧化政策の象徴」!鹿鳴館はなぜ8年で終わったのか (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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『東京日日新聞』は、明治新政府の欧化政策の象徴である鹿鳴館が明治一六年(1883)一一月二八日にオープンしたことを次のように伝えている。

〈鹿鳴館にて昨日をもって開館の式を挙行せり。今その景況の概略を記さんに、同館玄関の正面には菊(の)御紋の紫幕を張り、その上に鹿鳴館なる三字の花瓦斯(ガス灯のイルミネーション)を点火し、庭の内外には藍(と)赤の中白(白い中央部分のこと)に鹿を書きたる数千の毯灯(丸形の灯篭)を掛け、表門には青葉の円形飾りに菊の花を挿は さみて国旗を交叉(差)し、その装飾厳然たり〉

 鹿鳴館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計で、二階建て総建坪四四一坪を誇り、平面図を見ると、二階正面にメインのダンスホールの他、食堂や応接室などがあり、一階には玉突き場(ビリヤード場)を備え、我が国初の洋風迎賓館として建築された。

 ただ、宿泊施設まで作れなかったので、隣に後の帝国ホテルが開設された。鹿鳴の二文字は中国の古典『詩経』の「ゆうゆうと鹿の鳴くなり」に由来する。

 この鹿鳴館で、洋装に着飾った政府高官や、その婦人たちが、日本に居留する外国人らとダンスに興じた。

 旧幕府時代に欧米各国と結んだ不平等条約改正のため、アジアの“二流国”と、欧米諸国から蔑まれる日本が文明国であることを示そうと、井上馨外務卿が旗振り役となって建設したものの、明治二三年(1890)に閉鎖され、この華やかな鹿鳴館時代はわずか八年で終わった。

 なぜ短命に終わったのか。また、よく誤解されがちだが、この時代を代表する仮装舞踏会は鹿鳴館でなく首相官邸で行われた。

 知っているようで知らない謎を追ってみよう。

 まず、オープンの一年後、明治一七年一一月一日の『朝野新聞』は「誠にもって困り切りたる馬鹿踊り」と鹿鳴館での舞踏会を痛烈に批判している。その背景には、欧化政策を押し進める政府への批判という庶民感情があった。

 この庶民感情が生まれたのは、ハルトレー事件と大いに関係がある。鹿鳴館が華々しくオープンする六年前、横浜居留地在留のイギリス人ハルトレーがアヘンの密輸入を企て、検挙されたのだ。

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