明治新政府の「欧化政策の象徴」!鹿鳴館はなぜ8年で終わったのか (3/3ページ)

日刊大衆

 次に、治外法権撤廃のための条件として「西洋に範をとった法典を編纂・英訳し、外国の承認を得て実施すること」だった。これも日本近代化のために必要な措置だから、大きな問題はなかった。

 しかし、ここからが問題だった。イギリス、ドイツ案では「各級裁判所に外国人判事を任用」「条約批准の二年後、外国人に内地を開放し、居住と動産・不動産の所有を認める」というものだった。

 後者は、これまで居留地に限られていた外国人が日本全国どこでも住めると定めた規定。これにも批判が集まったが、それにも増して問題視されたのが、前者の外国人判事任用だった。日本に裁判権を取り戻すために、外国人に裁かせるというのでは、本末転倒。日本自らが治外法権を認めるようなものだった。

 ところが、井上外務大臣は条約改正の功を焦って外国人判事任用案を受け入れ、明治二〇年(1887)四月、世論の反対を押し切って「条約改正会議」を議了に持ち込んだ。

 こうして「井上は売国奴」だというムードが高まり、この改正案そのものが白紙に戻され、彼は同年九月に外務大臣を辞任した。

 かくして、旗振り役だった人物の失脚とともに、鹿鳴館時代も終わりを告げ、その三年後に華族会館に建物が貸与され、のちに払い下げられる運命となった。

 ところで最後に、井上が改正案をゴリ押ししたのと同じ明治二〇年四月、鹿鳴館時代最大の仮装舞踏会(ファンシー・ボール)が盛大に催されたことに触れておきたい。

 よく誤解されがちだが、この舞踏会は、当時の内閣総理大臣・伊藤博文夫妻主催であるため、総理官邸で催された。伊藤がベネチア貴族にふんした他、政府高官らも衣装を凝らしたが、皮肉なことにこの当時、最大の催しが鹿鳴館時代の最後を飾るアダ花になってしまったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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