その腕前に家康も関心!徳川家で弓術師範を務めた竹内信次の活躍ぶりやいかに?【どうする家康 外伝】 (3/3ページ)

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ゆゑに東照宮たはぶれに發知八蔵とめされ、仰によりて麾下の諸士信次に射芸を学ぶもの数多なり。天正十二年長久手の役に首二級をうち取、唐頭付たる甲及び村正の脇指を分捕す。その後唐頭は加々爪次郎右衛門某にあたへ、脇指は内藤弥次右衛門家長にあたふ。そののち関原御陣にしたがひたてまつり、慶長六年より西城の御留守居番をつとめ、のち奥方番に転じ、寛永十年致仕し、某年死す。年八十四。

※『寛政重脩諸家譜』巻第九百六十七 藤原氏(支流)竹内

その後、信次は関ヶ原の合戦(慶長5・1600年)に従軍。慶長6年(1601年)からは留守居番として前線に出ることはなくなったようです。

のち奥方番(いわゆる大奥の管理職員)となり、寛永10年(1633年)に引退。没年は不明ですが、84歳という長寿で世を去ったのでした。

竹内信次の生年を推測

ところで、竹内信次は生没年ともに不祥とされています。

仮に引退の翌年(寛永11・1634年)あたりに亡くなったとすると、生まれた年は天文20年(1551年)。

その場合、19歳で家康に仕えたのが永禄12年(1569年)。そこから小牧・長久手の戦い(天正12・1584年)に初陣だと34歳。いくら何でも遅すぎです。

そうなると、生まれた年は10~15年ほど繰り下がった永禄4年(1561年)~永禄9年(1566年)くらいと考えるのが自然でしょうか。

今後、確かな究明がまたれるところです。

終わりに

以上、徳川家康に仕えた竹内信次のエピソードを紹介してきました。

徳川家臣団には他にも個性豊かな武将がたくさんいたので、また改めて紹介したいと思います。

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第6輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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