中大兄皇子「大化の改新」成功後にすぐに即位しなかった意外な理由 (3/3ページ)

日刊大衆

■中大兄の即位の条件は女性天皇からの譲位!

 この話の真相は不明ながら、間人が夫の孝徳を裏切る形で母や兄と飛鳥へ帰ったことからすると、ありえない話ではないのかもしれない。

 ここからは斉明天皇の治世となるものの、中大兄が政治の主導権を握っていたとみられ、彼女が六六一年に崩御したあと、このときこそ即位してもよかった。

 ところが、中大兄が飛鳥から大津宮へ遷都した年の翌六六八年に正式に即位するまでの八年間、天皇は空位ながら、中大兄が政治を動かすのだ。これを称制(天皇が在位しない間、皇后や皇太子が臨時に政務を行うこと)という。

 斉明崩御の年、中大兄は三六歳に達し、平均よりは若干若いものの、即位適齢期に達していた。それでもなお、そこまでして即位を拒んだのは、いかなる理由なのか。

 これには諸説あり、その一つに、形式上とはいえ、斉明崩御の年に中大兄が即位したくても、そのための条件に不備が生じていたという説がある(遠山美都男『天智天皇』参照)。その条件というのが女性天皇からの譲位という形式だ。

 孝徳天皇は蘇我大臣家の専横を許したという理由で退位した皇極からの譲位という形で即位していたため、中大兄は重祚した斉明から譲位される必要があったが、彼女の死が急だったことから、その手続きを踏むことができなかったという。

 一方、六六八年に即位できたのは最愛の女性とみられる妹の間人皇女が亡くなり、その葬礼を取り仕切った中大兄が彼女を斉明の代役に立てて八年前に実現できなかった条件を満たしたというのだ。

 確かに間人は孝徳の皇后で斉明の娘だから、天皇に比肩する地位の者として中大兄へ譲位するという形は取り繕えるように思える。

 しかし、まだまだこの問題は、解決したとは言えない課題を残しているといえる。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
「中大兄皇子「大化の改新」成功後にすぐに即位しなかった意外な理由」のページです。デイリーニュースオンラインは、跡部蛮天皇歴史カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る