中大兄皇子「大化の改新」成功後にすぐに即位しなかった意外な理由
中大兄皇子が中心となって蘇我大臣家蝦夷、入鹿父子を滅ぼした古代の政変が大化の改新のクーデター。その年、西暦六四五年の干支をとって乙巳の変とも呼ばれる。
中大兄は外交使節を迎える宮中の儀式の最中、皇極天皇が臨席する前で自ら刺客として入鹿に斬り掛かり、見事に仕留めている。入鹿は息絶える前、天皇に「私になんの罪がありましょうか」と訴え出るが黙殺され、その後、父の蝦夷も自邸で自害して果て、飛鳥時代の朝廷で権勢を奮った蘇我大臣家はあっけなく滅んだ。
以上、『日本書紀』の内容を見る限り、このクーデターの首謀者は明らかに中大兄皇子といえる。
ところが、彼が天智天皇として即位したのは六六八年。二三年経ったあとの話だ。中大兄はクーデターを成功させて実力者の蘇我大臣家を葬り去ったにもかかわらず、なぜ、すぐに即位しなかったのか。
即位するまでの間、少なくとも三回はチャンスがあったものの、ことごとく、その機会を棒に振っている。この古代史の謎の一つに挑んでみよう。
まず一回目がクーデターの年。当時、実母の皇極天皇の時代だったが、蘇我氏専横を許したという理由で退位させられ、その弟の孝徳天皇が即位した。中大兄にとっては叔父に当たる。中大兄が実の母を退けて皇位につくのははばかられるため、叔父を傀儡に立てたともいえそうだが、孝徳は傀儡になるどころか、飛鳥からの遷都(難波宮)を断行し、中大兄とは違う政治路線を突っ走った。
このため、近年では孝徳こそがクーデターの首謀者だとされるようになり、結果、中大兄はその実行犯の一人という地位へと後退した。
というのも、まず蘇我政権が存続していたら次の天皇は蘇我氏の血筋である古人大兄皇子が即位する可能性が大きかったからだ。中大兄はクーデターの年に二〇歳でその先皇位につく機会が十分あったのに対し、四九歳だった孝徳はラストチャンス。蘇我大臣家を排除し、姉の皇極を退位させれば天皇の座が転がり込んでくるだけに動機は十分だ。
彼が政権奪取に意欲的だったことは当時、鳴かず飛ばずの地位にあって権力欲の旺盛な中臣(藤原)鎌足が初めに接近したのが孝徳だったことで裏づけられる(『藤氏家伝』)。
続いて二回目の機会が六五四年に孝徳天皇が没したとき。その前年、すでに中大兄と孝徳の政治路線の違いが決定的となっていて、朝廷を揺るがす大事件が起きていた。
当時、都は飛鳥(奈良県明日香村)から難波宮(大阪市中央区)へ遷都されていたが、中大兄が飛鳥への還都を進言し、先の皇極天皇や大海人皇子(のちの天武天皇)らの弟たち、孝徳の皇后である間人皇女のほか、「公卿大夫・百官」を引き連れ、飛鳥の都に戻ってしまったのだ。
こうして難波宮にあった孝徳天皇の朝廷は分裂した。特に彼は皇后の間人を深く愛しており、『日本書紀』によると、孝徳はそのことを恨んで彼女へ「金木着け 吾が買う駒は 引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか」(意訳=外へ引き出しもせず逃げないように飼っていた馬を人はどうして見つけたのだろうか)という歌を詠んだ。「人」は明らかに甥の中大兄を指している。
こうして最愛の妻に裏切られた孝徳が翌年に崩御。こう見てくると、この事件は、乙巳の変に続く第二のクーデターともいえるが、その仕掛け人といえる中大兄はこのときも皇位につかず、孝徳崩御翌年の六五五年、皇極が斉明天皇として重祚(退位した天皇が再び皇位につくこと)した。
その理由として当時の天皇即位年齢が挙げられる。七世紀に在位した天皇の即位年は最年少でも敏達天皇の三五歳。適齢は四〇歳だとされ、中大兄は当時、まだ三〇歳で若輩だったからといわれるが、それとは別に、もう一つ、気になる点がある。
手掛かりは、前述した孝徳天皇の歌。そこには中大兄と間人皇女がいわゆる男女の関係だったという意味が込められているというのだ。中大兄と間人は同じ母(皇極、斉明)から生まれた兄と妹。この時代、異母姉妹を妻に迎えるケースはあるが、さすがに相手が同母妹となると話は別。
中大兄が即位したら皇后を迎えなければならず、さすがに実の妹の間人を皇后とするわけにはいかず、あえて即位しなかったともいわれる。
■中大兄の即位の条件は女性天皇からの譲位!
この話の真相は不明ながら、間人が夫の孝徳を裏切る形で母や兄と飛鳥へ帰ったことからすると、ありえない話ではないのかもしれない。
ここからは斉明天皇の治世となるものの、中大兄が政治の主導権を握っていたとみられ、彼女が六六一年に崩御したあと、このときこそ即位してもよかった。
ところが、中大兄が飛鳥から大津宮へ遷都した年の翌六六八年に正式に即位するまでの八年間、天皇は空位ながら、中大兄が政治を動かすのだ。これを称制(天皇が在位しない間、皇后や皇太子が臨時に政務を行うこと)という。
斉明崩御の年、中大兄は三六歳に達し、平均よりは若干若いものの、即位適齢期に達していた。それでもなお、そこまでして即位を拒んだのは、いかなる理由なのか。
これには諸説あり、その一つに、形式上とはいえ、斉明崩御の年に中大兄が即位したくても、そのための条件に不備が生じていたという説がある(遠山美都男『天智天皇』参照)。その条件というのが女性天皇からの譲位という形式だ。
孝徳天皇は蘇我大臣家の専横を許したという理由で退位した皇極からの譲位という形で即位していたため、中大兄は重祚した斉明から譲位される必要があったが、彼女の死が急だったことから、その手続きを踏むことができなかったという。
一方、六六八年に即位できたのは最愛の女性とみられる妹の間人皇女が亡くなり、その葬礼を取り仕切った中大兄が彼女を斉明の代役に立てて八年前に実現できなかった条件を満たしたというのだ。
確かに間人は孝徳の皇后で斉明の娘だから、天皇に比肩する地位の者として中大兄へ譲位するという形は取り繕えるように思える。
しかし、まだまだこの問題は、解決したとは言えない課題を残しているといえる。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。