中大兄皇子「大化の改新」成功後にすぐに即位しなかった意外な理由 (2/3ページ)
続いて二回目の機会が六五四年に孝徳天皇が没したとき。その前年、すでに中大兄と孝徳の政治路線の違いが決定的となっていて、朝廷を揺るがす大事件が起きていた。
当時、都は飛鳥(奈良県明日香村)から難波宮(大阪市中央区)へ遷都されていたが、中大兄が飛鳥への還都を進言し、先の皇極天皇や大海人皇子(のちの天武天皇)らの弟たち、孝徳の皇后である間人皇女のほか、「公卿大夫・百官」を引き連れ、飛鳥の都に戻ってしまったのだ。
こうして難波宮にあった孝徳天皇の朝廷は分裂した。特に彼は皇后の間人を深く愛しており、『日本書紀』によると、孝徳はそのことを恨んで彼女へ「金木着け 吾が買う駒は 引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか」(意訳=外へ引き出しもせず逃げないように飼っていた馬を人はどうして見つけたのだろうか)という歌を詠んだ。「人」は明らかに甥の中大兄を指している。
こうして最愛の妻に裏切られた孝徳が翌年に崩御。こう見てくると、この事件は、乙巳の変に続く第二のクーデターともいえるが、その仕掛け人といえる中大兄はこのときも皇位につかず、孝徳崩御翌年の六五五年、皇極が斉明天皇として重祚(退位した天皇が再び皇位につくこと)した。
その理由として当時の天皇即位年齢が挙げられる。七世紀に在位した天皇の即位年は最年少でも敏達天皇の三五歳。適齢は四〇歳だとされ、中大兄は当時、まだ三〇歳で若輩だったからといわれるが、それとは別に、もう一つ、気になる点がある。
手掛かりは、前述した孝徳天皇の歌。そこには中大兄と間人皇女がいわゆる男女の関係だったという意味が込められているというのだ。中大兄と間人は同じ母(皇極、斉明)から生まれた兄と妹。この時代、異母姉妹を妻に迎えるケースはあるが、さすがに相手が同母妹となると話は別。
中大兄が即位したら皇后を迎えなければならず、さすがに実の妹の間人を皇后とするわけにはいかず、あえて即位しなかったともいわれる。