中大兄皇子「大化の改新」成功後にすぐに即位しなかった意外な理由 (1/3ページ)
中大兄皇子が中心となって蘇我大臣家蝦夷、入鹿父子を滅ぼした古代の政変が大化の改新のクーデター。その年、西暦六四五年の干支をとって乙巳の変とも呼ばれる。
中大兄は外交使節を迎える宮中の儀式の最中、皇極天皇が臨席する前で自ら刺客として入鹿に斬り掛かり、見事に仕留めている。入鹿は息絶える前、天皇に「私になんの罪がありましょうか」と訴え出るが黙殺され、その後、父の蝦夷も自邸で自害して果て、飛鳥時代の朝廷で権勢を奮った蘇我大臣家はあっけなく滅んだ。
以上、『日本書紀』の内容を見る限り、このクーデターの首謀者は明らかに中大兄皇子といえる。
ところが、彼が天智天皇として即位したのは六六八年。二三年経ったあとの話だ。中大兄はクーデターを成功させて実力者の蘇我大臣家を葬り去ったにもかかわらず、なぜ、すぐに即位しなかったのか。
即位するまでの間、少なくとも三回はチャンスがあったものの、ことごとく、その機会を棒に振っている。この古代史の謎の一つに挑んでみよう。
まず一回目がクーデターの年。当時、実母の皇極天皇の時代だったが、蘇我氏専横を許したという理由で退位させられ、その弟の孝徳天皇が即位した。中大兄にとっては叔父に当たる。中大兄が実の母を退けて皇位につくのははばかられるため、叔父を傀儡に立てたともいえそうだが、孝徳は傀儡になるどころか、飛鳥からの遷都(難波宮)を断行し、中大兄とは違う政治路線を突っ走った。
このため、近年では孝徳こそがクーデターの首謀者だとされるようになり、結果、中大兄はその実行犯の一人という地位へと後退した。
というのも、まず蘇我政権が存続していたら次の天皇は蘇我氏の血筋である古人大兄皇子が即位する可能性が大きかったからだ。中大兄はクーデターの年に二〇歳でその先皇位につく機会が十分あったのに対し、四九歳だった孝徳はラストチャンス。蘇我大臣家を排除し、姉の皇極を退位させれば天皇の座が転がり込んでくるだけに動機は十分だ。
彼が政権奪取に意欲的だったことは当時、鳴かず飛ばずの地位にあって権力欲の旺盛な中臣(藤原)鎌足が初めに接近したのが孝徳だったことで裏づけられる(『藤氏家伝』)。