【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】 (2/4ページ)
「それがしはもはや年老いてございますれば、愚息の半次郎をお傍に置かれませ」
かくして家康の側近に列せられた惟明は、その利発さを見込まれたのか文禄元年(1592年)になると徳川秀忠の元へ配属されました。
やがて慶長5年(1600年)に秀忠が真田昌幸の立て籠もる上田城を攻めた時には、惟明は酒井家次・奥平信昌・牧野康成の配下として苅田奉行を務めます。
奉行なんて言うとカッコいいですが、この苅田奉行とは敵を徴発するため、城下の田んぼを刈り取って城からおびき出す役目。奉行はその実務を担当したのです。
これを見過ごしては城内が干上がってしまうため、上田城内から真田勢が撃って出てきました。
さぁ待ってましたとばかり惟明たちは七人で槍を合わせて奮闘し、みごとに敵を追い返します。この時、七本槍の脇から太田吉正(甚四郎)は弓射巧みに次々と敵を射止め、合わせて賞賛されたそうです。
力を合わせて大手柄を立てた七本槍と甚四郎ら八名は、これで恩賞間違いなしと意気揚々。しかし軍令に違犯したことを咎められ、戦後に上野国吾妻へ蟄居させられてしまいました。
……が、まだまだ武勇の士は重宝されたこの時代。やがて慶長6年(1601年)に赦免され、同年7月15日に旧領(武田家臣時代?あるいは徳川臣従以降?)を賜ります。
慶長7年(1602年)には加増されてすべて1,600石を知行することとなり、また親衛隊に相当する大番(おおばん)の組頭(部隊長)を務めました。相応の実力と人望があったのでしょうね。
その後、二度にわたる大坂の陣(冬の陣:慶長19・1614年/夏の陣:慶長20・1615年)では使番(伝令将校)として活躍。首一級を得たということですが、二回で一つの首を得たのか、あるいはそれぞれ一つずつ得たのかはよくわかりません。
この武功によってか、豊臣滅亡&家康死後の元和3年(1617年)に佐渡金山の代官を命じられました。
寛永2年(1625年)には加増され、12月11日付で四国七郡2,500石を知行する旨の御朱印状を賜わります。