【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】 (3/4ページ)
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そして寛永4年(1627年)7月14日、佐渡国において60歳の生涯に幕を下ろしました。法名は宗清(あるいは柏青)、佐渡国雑太郡の綱源寺に葬られたそうです。
一度断絶した鎮目家を再興
●惟明(これあきら)
半次郎 市左衛門 母は虎泰が女。
天正十年東照宮甲斐国に入せ給ふの時初めて拝謁す。是時父惟真老年にをよびしにより、惟明をもつて御麾下に列せしめむ事を請奉りしかば、めされて御傍に近侍す。時に十五歳 文禄元年台徳院殿に附属せられ、慶長五年真田昌幸が籠れる信濃国上田城を攻給ふのとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬允康成が手に属し、苅田の事を奉行し、城近くにいたるの時、城中より軽兵を出しこれを追はらはむとせしかば、惟明をよび小野次郎右衛門忠明、辻左次右衛門久吉、戸田半平光正、中山勘解由照守、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣政等七人鎗をあはせ、太田甚四郎吉正は鎗脇にて敵を射、城中に追ひ入。世にこれを上田の七本鎗と称す。後惟明等軍令を犯せしことをとがめられて、上野国吾妻に蟄居せしめらる。六年赦免あり。七月十五日舊領を賜ひ、七年加増ありて、すべて千六百石を知行し、大番の組頭をつとむ。大坂両度の御陣には御使番となりてしたがひたてまつり、首一級を得たり。元和三年佐渡の御代官となり、寛永二年加増あり。