【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】 (1/4ページ)

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【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】

時は慶長5年(1600年)、天下分け目の決戦に遅れてしまった徳川秀忠。

信州上田城に立て籠もる真田昌幸らの足止めを食ってしまったためですが、実質的に負け戦の中でも武勇を奮った者たちがいました。

後世「上田七本槍」と呼ばれた勇士たちの顔ぶれは以下の通り。

朝倉宣政(あさくら のぶまさ。藤十郎) 小野忠明(おの ただあき。次郎右衛門) 斎藤信吉(さいとう のぶよし。久右衛門) 鎮目惟明(しずめ これあきら。半次郎) 辻久吉(つじ ひさよし。左次右衛門) 戸田光正(とだ みつまさ。半平) 中山照守(なかやま てるもり。勘解由)

今回はそんな上田七本槍の一人、鎮目惟明を紹介したいと思います。

上田合戦・大坂の陣で活躍

「大坂夏の陣図屏風」より、家康の周囲に控える使番たち(五の印を背負っている)。この中に、鎮目惟明がいたかも。

鎮目惟明は永禄11年(1568年)、甲斐武田家臣・鎮目惟真の子として誕生しました。通称は半次郎または市左衛門、母親は武田二十四将の一人・甘利虎泰の娘です。

父も祖父・鎮目七郎右衛門も代々武田家に仕えてきましたが、惟明が15歳となった天正10年(1582年)に武田家が滅亡してしまいました。

やがて徳川家康が甲斐国へ入ると、惟真は惟明を出仕させます。

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