【関ヶ原合戦】上田七本槍として武勇を奮った甘利虎泰の孫・鎮目惟明とは?【どうする家康 外伝】 (4/4ページ)

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十二月十一日武蔵国多摩、比企、兒玉、下総国印旛、上総国武射、山辺、近江国高島七郡のうちにして、すべて二千百五十石をたまふのむね御朱印を下さる。四年七月十四日佐渡国にをいて死す。年六十。法名宗清。 惟成喜一等が呈譜、柏青に作る かの地雑太郡の綱源寺に葬る。 妻は内田全阿弥正次が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三十 清和源氏(義光流)鎮目

【鎮目家略系図】

……鎮目七郎右衛門-鎮目惟真-鎮目惟明-鎮目惟重=鎮目惟利(惟重の弟・鎮目惟正の子)……鎮目某(惟正の次男で惟利の弟)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第二百三十 清和源氏(義光流)鎮目

以上、「上田七本槍」の一人として武功を重ねた鎮目惟明の生涯をたどってきました。

惟明の死後、鎮目家は孫に当たる鎮目惟利が亡くなったことで寛永18年(1641年)に一度断絶してしまいます。しかし、鎮目惟正の次男である鎮目某が寛永19年(1642年)に生まれたことで、例外的に御家再興が認められたのでした。

この実名も知られていない鎮目某がどんな活躍をして、子孫たちに家名を受け継いでいったのか、調べられたらまた紹介したいと思います。

※参考文献:

『寛政重脩諸家譜 第2輯』国立国会図書館デジタルコレクション

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