大砲ぶっ放し天守閣に命中!「大坂の陣」で活躍した徳川軍の砲術師・渡辺三郎太郎とは何者か? (2/4ページ)
ここで言う石火矢とは、大砲など重火器全般を指します。すっかり砲術を学んだ三郎太郎ですが、肝心の大友宗麟が薩摩国(現:鹿児島県西部)の島津義久に滅ぼされてきまいました。
砲術の腕前を評価されて徳川家康に再仕官主君の没落に従うように三郎太郎は出家し、宗覚(そうがく)と称します。流浪の末に豊後国の府内城主・早川主馬に保護され、無聊をかこちていました。
「渡辺殿の砲術を、このまま朽ちさせるのはまことに惜しい。これは徳川殿へ紹介しよう」
という訳で、早川主馬は宗覚父子を徳川家康へ引き合わせます。
強力な砲術を目の当たりにした家康はさっそく宗覚を取り立てて、たびたび御用を命じたのでした。
慶長5年(1600年)に家康が石田三成らと争った関ヶ原の合戦でも大砲を用いていますから、宗覚の砲術が活躍したのかも知れませんね。
そして大坂冬の陣では、冒頭のごとく大砲が大活躍です。
城内深くは届かずとも、轟音で豊臣方の心身を参らせようと思っていたところ、まぐれの一発が天守閣に当たって淀殿(秀頼母。茶々)を震え上がらせたとか。
これが豊臣方の戦意を削ぎ、講和につながったとの説もありますから、大殊勲と言えるでしょう。