もともとは「やよす」?東京の「八重洲」の地名は外国人の名前に由来していた。その名称の変遷を紐解く (3/3ページ)

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仕方なく、彼は諦めて再び日本に帰ることにしました。しかしその途中、乗っていた船がインドシナで座礁し命を落とします。

そして、先述の「やよす」と呼ばれていたあたりは、明治時代になってから正式に「八重洲」の漢字があてがわれることになりました。

つまり「八重洲」は当て字だったわけですが、しかし当て字にしては美しい地名ですね。

震災後の八重洲

さて、1923年の関東大震災で、八重洲は大きな被害を受けました。

もともと八重洲町は横長の区域でしたが、震災後の町名の再編により、東京駅を中心としてに「西は丸の内・東は八重洲」という現在の配置になったのです。

その後は、東京駅の西側にある丸の内と対になって、東京の中心地として発展していったのはご存じの通りです。

八重洲口・空撮

ただ、ヨーステンが住んでいた和田倉門のあたりというのは、細かく言えば現在の丸の内にあたるそうですが。

とはいえ、こうして見ていくと、東京駅の「八重洲口」は江戸時代の日本とオランダの歴史的な関係を象徴する地名であることが分かりますね。

ヤン・ヨーステンの記念像は、現在も東京駅の八重洲地下街に存在します。

参考資料:

・一般財団法人国民公園協会
・臼杵市観光協会
乗りものニュース

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