「この子が男に生まれていれば…」父・藤原為時を嘆かせた、幼少期の紫式部の天才エピソード【光る君へ】 (2/3ページ)

Japaaan

紫式部の生まれた年については諸説ありますが、さしあたり彼女が八歳くらいだったと思われる977年には、父の藤原為時読書始の儀における副字読というポジションに就いています。

読書始の儀とは、皇太子が、毎年最初に勉強をする時に撮り行う儀式のこと。副字読は、その儀式で皇太子に勉強を教える「字読」というポジションの副官にあたります。

もともと為時は学者肌の人だったと言われており、彼にとってこのポジションを獲得したのは大変名誉なことでした。当時の紫式部も、子供なりに父の出世が素晴らしいものだと感じていたようです。

為時が、当時の皇太子である師貞親王の御殿へ、しょっちゅう出入りするようになったのはこの時からです。そして彼は、皇太子の近習(主君のそば近く仕える家来)たちと親交を深めていきました。

「男にて持たらぬこそ幸なかりけれ」

さて、紫式部が小さい頃から突出した才能を持っていたことを伺わせるエピソードがあります。それは為時が副字読に就任してから数年後のことでした。

おそらくこの時、彼女は十一歳くらいだったと思われます。『紫式部日記』に、その内容が記されています。

それによると、紫式部の弟である藤原惟規に、父の為時が中国の書籍(漢籍)を読ませていた時のことでした。

この時、惟規は書籍の内容がなかなか理解できず、覚えられずにいました。しかし、横でその内容を聞いていた紫式部は、弟よりも先にその内容を習得してしまったのです。

このことに気付いた為時は、何せ学問教育に熱心だったものですから、こう嘆いたといいます。

   口惜しう 男にて持たらぬこそ幸なかりけれ

口語訳すると、「残念だ。

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