逃げ出した指揮官…幕末「鳥羽・伏見の戦い」で圧倒的戦力の旧幕府軍が敗北した理由【後編】 (3/4ページ)
実はこの時、鳥羽街道を進む諸部隊の本来の総指揮官だった陸軍奉行・竹中重固は、京街道で伏見に向かっているところでした。彼もまた、部隊を捨てて遁走してしまいます。
つまり鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍はほとんど不意打ちの形で攻撃を受けた上に、指揮官を欠いた状態だったのです。
滝川具挙の末路他の戦闘地でも、例えば狭い地形であるにもかかわらず、指揮官が戦国時代さながらの密集陣形を採用したことなどが幕府軍の敗因として挙げられます。彼らは伏兵や十字砲火の餌食となり、最初は1万5千人もいた歩兵たちはすっかり無駄になってしまいました。
このように、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が惨敗した理由は、ハードではなくソフトの側にあったといえるでしょう。
当時の幕府軍は、装備も兵器も質・量ともに新政府軍を上回っていたのに、士気の低さと指揮官の失敗によって大敗を喫したのです。
ちなみに、鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切って落とされたまさにその時、前線を離脱してしまった指揮官・滝川具挙は1月12日に江戸へ戻ります。
そして2月9日には、若年寄の永井尚志と同役の戸川安愛などとともに免職されて寄合となりました。