紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【前編】 (2/4ページ)

Japaaan

藤原道長

式部との結婚の翌年、長保元 (999)年の11月には、道長の娘である彰子が一条天皇の女御となりました。その際、宣孝は祝いの席の警護を担当しています。

続いて同年、豊前国の宇佐神宮(大分県宇佐市)への奉幣使(使者)も任ぜられ、道長から直々に指図を受けて一条天皇に拝謁。それから豊前に向かい、翌年2月に帰京しました。

紫式部が長女・賢子を出産したのは、宣孝が帰ってきたこの年、長保2 (1000)年だったと考えられています。

ところが、幸せな日々は長続きしませんでした。このあたりから宣孝と式部の関係はぎくしゃくしてきます。

冷える夫婦仲

結婚前にはあれほど熱心に式部に迫っていた藤原宣孝ですが、次第に彼は式部の家に顔を出さなくなったのです。

宣孝は複数の妻を持っていましたが、その中でも一番若い式部の家に、結婚当初の宣孝は足しげく通っていました。その足が、だんだん遠のいていったのです。

「紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、藤原宣孝光る君へ紫式部平安時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る