紫式部と夫・藤原宣孝の間に訪れる悲劇…。悲しみを乗り越えあの世界的古典が生み出される【後編】 (2/4ページ)
宣孝の心が自分から離れていたことを自覚してはいたものの、やはり夫の突然の死は紫式部に大きな悲しみと不安をもたらしました。
歌とその後の回顧長保3年の暮れには、円融天皇の女御で、一条天皇の母である藤原詮子が崩御しました。
これを受けて、京都の貴族たちも誰もが喪服を着たのですが、夫を亡くした紫式部はすでに喪服を着ていたと言われています。そこで紫式部は、
なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に
(取るに足らない私は、どうして夫の死を悲しんで袖を濡らしているのでしょう。国中の方が喪服を着ている時に)
見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦
(連れ添った人が煙となった夕べから、〈海藻を焼いて塩を採ることで知られる〉「塩竈の浦」という名に親しみさえ感じるようになりました)
といった歌を詠んでいます。
