『源氏物語』が結んだ紫式部と藤原道長の絆…未亡人の紫式部がパトロンを得て世界的古典を書き始めるまで (3/4ページ)
今井源衛氏は著書の中で、「石山寺参籠の話などは、試みに石山寺の源氏の間と称する本堂の一劃に立つと、眼前にはただ巨岩がそば立っているだけで、東北遥か彼方の琵琶湖はおろか、すぐそばの瀬田川すらも見えないのだから、真っ赤な嘘である」と断言しています。
それでは、紫式部はいつ『源氏物語』を書き始めたのでしょうか。これについては意外なほど手掛かりがありません。
『紫式部日記』や『紫式部集』のほか、同時代に書かれた他の史料には、ヒントになるような記述が乏しく、はっきりしたことはわかっていません。
わかっているのは、寛弘5 (1008)年頃には『源氏物語』はある程度書かれており、複数の人々に読まれていたということです。
その根拠は、「紫式部日記』にある寛弘5年11月1日の記述にあります。 紫式部はこの左衛門府の長官である左衛門督が、「あなかしこ、このあたりに若紫やさぶらふ」(失礼、このあたりに若紫さんはおいでかな)と訪ねてきたと記しているのです。ちなみに「若紫」は、紫上の幼名です。
これに対して紫式部は、「光源氏に似た方もいないのに、紫上がいるわけがない。まして、自分が紫上なんてとんでもない」と相手にしなかったのです。
この記述により、この時までに『源氏物語』は少なくとも、紫上が登場する第5帖までは書かれていたことがわかったのです。