仙人に、おれはなる!大空を飛びたすぎて仙術修行にハマってしまった平安貴族・藤原友人の生涯 (3/4ページ)
※国のランク(大国・上国・中国・下国)によって大掾(だいじょう)・少掾(しょうじょう)・大目(だいさかん)・少目(しょうさかん)に細分化されたり、介や掾が割愛されたりすることがあります。 伊予親王の変以降
伊予親王のおじとして、これから出世が期待されようかという友人。しかし大同2年(807年)、中央で伊予親王が藤原宗成(むねなり)に陥れられる政変が発生しました(伊予親王の変)。
これによって伊予親王と母の吉子は幽閉されて服毒心中。大納言であった兄の雄友は伊予国へ流罪となってしまいます。
事件とは無関係であった友人も、とばっちりを受けて下野守(しもつけのかみ)に左遷されてしまいました。
国守は国司の長官だから、次官である播磨介から見ると出世のようにも思えます。
しかし播磨国は大国であるのに対して、下野国は1ランク下の上国。大国の次官であった方が、上国の長官よりも待遇はよかったようです。
このまま中央官界からフェイドアウトするかと思いきや、ほとぼりがさめたのか弘仁元年(810)には兵部少輔(ひょうぶのしょうゆう)として復帰します。
……從五位下藤原朝臣友人爲兵部少輔……
※『日本後紀』巻廿 弘仁元年(810年)9月16日条
兵部少輔は軍事分野を司る兵部省の次官(すけ。輔)で、兵部大輔と兵部少輔に分かれていました。
しかし翌弘仁2年(811年)には讃岐守(さぬきのかみ)として現地へ赴任。性格の悪さと礼儀知らずさが災いしたのでしょうか。