935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】 (3/4ページ)
問題が発生したのは、938(承平8)年に武蔵権守として興世王という人物が赴任してからのことでした。この人物は、着任早々検注を実施して賄賂を要求したため、地元の有力者と対立して紛争に発展してしまったのです。
これを調停しようとしたのが平将門です。この頃の将門は、関東地方のいわば顔役のような存在でした。そしてこれが原因で939年に将門は謀反人として訴えられています。
では、これこそがいわゆる平将門の乱の起点か? と考えたくなるところですが、そうとも言えません。なぜならこの時、将門は事実無根を都に訴えており、朝廷はそれを認めているからです。
三度目でついに謀反人扱いさらに将門は、同年に常陸の豪族と常陸の役人との対立を調停し、地元の有力者に味方して役人を都に追い返しています。
これによって再び常陸介から謀反を訴えられ、今度は将門に不利な裁決が出ました。それに従わなかったため、いよいよ彼は追討されることになります。
そこで将門は関東の国府を襲い、都から派遣されていた役人を次々に追放しました。
公的な意味での「乱」と言えるのは、この国府襲撃だと言えるでしょう。