奈良時代の聖武天皇は引っ越しがお好き?風変わりな天皇が遷都を繰り返した目的は何だったのか?
風変わりな天皇
聖武天皇(しょうむてんのう)は、中国大陸から仏教文化や技術を積極的に受け入れた天皇です。
東大寺の大仏造営を主導したのも、聖武です。その目的は、仏教の力で国や朝廷の安泰を祈ることにありました。日本史の授業で聞いた記憶がある方もいることでしょう。
それに加えて、聖武天皇は都を幾度も変更するという風変わりな行動でも知られています。
聖武天皇は、5年の間に四度も遷都を行っています。天平12年(740)に平城京から恭仁宮(京都府木津川市加茂)へと遷ったの皮切りに、紫香楽宮(現滋賀県甲賀市信楽町)、難波宮(現大阪市)と次々に都を変更。最後は天平17年(745)に平城京へ戻りました。
遷都をすれば天皇や皇族、群臣の宮殿などを新築・移設する必要があり、国庫への負担が大きいのは言うまでもありません。同じ天皇が短期間に何度も遷都をするメリットがあるとは考えにくいです。
それでも遷都を繰り返したのは、今までは藤原広嗣の乱への恐怖が原因だとされてきました。
藤原広嗣の乱は無関係大宰府に左遷させられていた藤原広嗣は、天変地異の理由を政治の乱れにあると聖武天皇に上表。唐への留学経験のある玄昉と吉備真備を除くよう主張します(『前賢故実』国会図書館所蔵)。
また、度重なる天変地異の原因が政治の乱れにあると思った広嗣は、挙兵の準備を進めました。
朝廷側が機先を制したために広嗣の軍勢は敗れましたが、この出来事に聖武はショックを受け、戦いの途中で東国へ行幸してしまいます。
戦いが終結してから幾度も遷都を行ったのも、広嗣の反乱がトラウマになったからだと言われてきました。
しかし現在、この通説は否定されています。
東国への行幸は反乱勃発前に計画されており、広嗣軍の決起で延期されていたにすぎませんでした。
行幸が実施されたのは、単に反乱鎮圧の目途が立ったためです。
では、遷都の本当の目的は何だったのでしょうか。
さまざまな説度重なる遷都の目的として有力なもののひとつに、国土の復興説があります。
反乱前後の平城京は疫病の傷跡が色濃く残り、河川も人骨が散乱するほどの惨状でした。そんな穢れが蔓延する都から離れ、新しい都で心機一転しようとしたのではないかという説です。
奈良時代初期から離宮が置かれ、『万葉集』で山川の清浄さが絶賛された恭仁宮は、まさに国の穢れを浄化するのに最適な地でもありました。
もっともこの説では、なぜ造営途中で紫香楽宮や難波宮に遷都したのかは説明できませんが、少なくとも恭仁京への遷都の説明としては無視できません。
仮説は他にもあります。例えば朝廷政争説です。
奈良時代は、朝廷内で藤原氏や皇族、貴族の対立が頻繁に起きていました。これに危機感を抱いた天皇が平城京を捨てた、という説です。
その他には、唐の複都制をまねて複数の首都を置こうとしたという説もあります。また、行幸のルートが壬申の乱における天武天皇の進軍路と似ていることから、壬申の乱を再現して天皇の権威復興をアピールしようとしたとする説もあります。
聖武はその治世で、戦乱や政争、自然災害に相次いで直面しました。そうした境遇のなかで大きな迷いを抱き、都を転々とするようになったのかも知れませんね。
参考資料:日本史の謎検証委員会・編『図解最新研究でここまでわかった日本史人物通説のウソ』彩図社・2022年
画像:photoAC,Wikipedia
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