「大坂の陣」の籠城戦は既定路線だった?真田信繁の先制攻撃の主張に関する誤解を検証 (1/3ページ)
籠城戦は仕方なく選ばれた?
大坂の陣で徳川家康を追い詰め、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評価された武将がいます。信濃国上田出身の真田信繁(さなだ・のぶしげ)です。
ご存じの通り、大坂の陣は慶長19年(1614)、秀吉亡き後の豊臣家に引導を渡すべく、徳川家康が仕掛けた合戦です。
全国の大名を動員した約20万もの徳川軍に対し、豊臣軍は浪人主体の約10万でした。
かつての通説では、信繁は兵力に勝る徳川軍の気勢を制するべく、先制攻撃を主張したとされていました。
近江国瀬田(滋賀県大津市瀬田)に防衛線を敷き、この地で徳川軍を迎撃している間に西国の大名を味方につければ、敵は戦意を喪失するだろう——。信繁は後藤又兵衛とともに、豊臣家の重臣たちにそう主張したとされています。
しかしこれに、徳川方のスパイである小幡景憲が反発しました。
豊臣の重臣も、浪人である信繁たちの考えに理解を示さず、戦いは籠城戦にならざるをえなかったというわけです。
しかし、この通説は現在はすでに否定されています。