「大坂の陣」の籠城戦は既定路線だった?真田信繁の先制攻撃の主張に関する誤解を検証 (2/3ページ)

Japaaan

真田信繁(幸村)像

まず、小幡による妨害を記しているのは、真田家に関する後世の史料しかありません。よって小幡が大坂の陣でどう動いていたのかはよく分かっていませんし、そもそも大坂城にいたのかすらも不明です。

仮にいたとしても、小幡は下級武士で身分が低く、軍議にも出られなかったでしょう。彼は、豊臣の重臣たちを説得できるような人物ではありませんでした。

浪人主体の先制攻撃の危うさ

史料によってニュアンスは異なるものの、籠城戦は重臣たちによる一方的な決定だったと思われます。

例えば、江戸時代初期の禅僧・金地院崇伝による『本光国師日記』には、浪人の方から城に引き籠ったと記されています。

18世紀初頭に完成した家康の伝記『烈祖成績』でも、籠城の準備が整った後に信繁が先制攻撃を献策して、籠城派の又兵衛が異を唱えたとあります。順序が逆なのです。

後者は時代が下る史料ではありますが、いずれも重臣たちの無理解から籠城戦になったという通説とは異なります。おそらく話し合いの結果、籠城戦に傾いたのでしょう。

籠城戦は既定路線だった?

豊臣軍の内情を鑑みて、そもそもはじめから籠城戦に決定していたのではないか、という説もあります。

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