皇女・小松女院との不倫により左遷……清少納言の兄弟とされる清原正高の生涯【光る君へ】 (2/3ページ)

Japaaan

入水する小松女院(イメージ)

天延元年(973年)に豊後国玖珠郡(大分県玖珠町・九重町)へ現地入りした正高は、山田郷の領主・矢野検校(やのけんぎょう)こと藤原久兼(ひさかね。矢野久兼)に婿入りします。

妻との間には嫡男の清原正通(まさみち)を授かりました。

ほか生母不明の子として清原通成(みちなり)と清原通次(みちつぐ)もいたそうですが、一説には彼らは正通の子とも言われハッキリしません。

そんな中、現地の伝承によると小松女院が正高に再開するため、11名の侍女を連れて訪れたと言います。

しかし正高にはすでに妻子があったため、絶望した小松女院らはことごとく入水して果てたのだとか。

正高は女院の死を深く悲しみ、その菩提を弔うため堂宇を建立。これが後に正高寺(しょうこうじ。大分県玖珠町)となりました。

やがて罪を赦された正高は京都へ帰ることとなり、その晩年を故郷の山科で暮らします。

しかし山科に戻って間もない万寿4年(1027年)2月15日、正高は世を去ったのでした。

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