貴族から盗賊への”完全なる闇落ち”!悪へと染まった平安貴族「藤原保輔」の悪行の数々 (2/3ページ)

Japaaan

藤原保昌/Wikipediaより

保輔、悪の道へ

家柄にも恵まれていた保輔でしたが、寛和元年(985)から徐々に悪の道へ足を踏み入れていきます。その第一歩として、この年に左大臣・源雅信の邸宅で行われた宴会の帰りに藤原秀孝の顔を傷つける事件を兄である藤原斉明(ふじわらの-ときあきら)と起こます。

その後も、斉明を逮捕した検非違使・源忠良を射殺し、同じく検非違使の平維時を殺害する計画を企てるなどして、罪を重ねていきました。

しかし永延2年(988)、保輔が藤原景斉の屋敷に強盗へ入ったことを保輔と共に強盗を行った手下が白状したことで事態が一変することになります。

悪行の果てには…

郎党により、先述した犯行を踏まえて保輔は15回も犯行に及んだことが判明したので、朝廷は「逮捕した者には恩賞を与える宣旨」を出し、本格的な保輔逮捕に乗り出します。

しかし、なかなか見つけることができずにいたので、保輔を誘き出すために父の致忠を監禁しました。

保輔はこの事態に危機を感じたので、花園寺(はなぞのでら)で出家します。そして、友人の藤原忠延の元を尋ねましたが、密告され逮捕されました。

逃げることができない状態となった保輔は最後の抵抗として、刀を自らの腹に刺して腸を引きずり出して自殺を図ります。しかしすぐには死ねず、翌日獄中で保輔は息絶えました。

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