血で血を洗う戦乱の世に「信仰」で抗った男!戦国武将・高山右近の波乱の生涯とその最期 (3/4ページ)
また前田利家も、洗礼こそ受けなかったものの右近の影響でキリシタンに対して好意的でした。
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ところが、秀吉が1587年(天正15)にバテレン追放令を出すと、秀吉の側近だった黒田孝高はすぐに棄教しましたが、右近は信仰を守ることを決意します。彼は信仰と引き換えに領地と財産を捨て、世間を驚かせました。
さらに1614年(慶長19)には、徳川家康によって宣教師とともに国外追放を命じられる事態に。これは大坂城攻撃を前に、キリシタンが豊臣側につくことを防ぐための家康の計略でした。
マニラで賓客として迎えられる右近は、妻のジュリアたち100人余りとともに、同年10月に長崎からマニラへ向けて出帆します。
そして43日後にマニラに到着。右近は、すでにイエズス会からの報告によって当地でも有名になっていたため、スペイン人のフィリピン総督や市民たちから礼砲で迎えられて賓客として遇されました。
しかし、長い航海と南国の酷暑で急速に衰弱。上陸から一か月ほどで熱病におかされ、翌年2月4日に64歳で亡くなりました。
葬儀は、総督の指示によって、イエズス会管区長の葬られるサンタ・アンナ聖堂でマニラ全市をあげて営まれました。