約6000年~5000年前の大昔、縄文人は舟をどう造ったのか?クジラ漁など縄文時代の生活と「海」の関わり

Japaaan

約6000年~5000年前の大昔、縄文人は舟をどう造ったのか?クジラ漁など縄文時代の生活と「海」の関わり

縄文人はどう丸木舟を作っていたか

今回は、縄文人と「海」との関係について、舟や貝殻、それにクジラなどの観点から解説します。

約6000年~5000年前の縄文前期には丸木舟が作られるようになりました。中には全長10メートルの舟まであったようです。

安土城考古博物館に展示されている先史時代の丸木舟のレプリカ(Wikipediaより)

まだ金属器がなかった時代、彼らはどうやって、そんな大きな丸木舟を作ったのでしょうか?

その製法は、縄文遺跡から見つかった丸木舟の調査によって確かめられています。調査結果によると、削りたい部分を燃やして炭化させ、もろくなったところを石器で削りとっていたことが分かっています。

大型の丸木舟をつくるには、まず巨木を切り倒さなければなりません。そこで、斧を入れる場所に石器の錐で小さな穴を開けます。

そして、その穴にヒノキの細い棒を差し込んで激しく摩擦すると、火が起こります。あらかじめ油に浸した縄をその穴の近くに巻きつけておけば、起こした火が縄に燃え移り、幹を焦がすことになりますね。

これを繰り返せば、幹の奥深くまで炭化させることができるわけです。そこに石の斧を打ち込み、さらに石器で斧を叩けば、やがて巨木も倒れるでしょう。

また、巨木をくり抜くときも、同じようにしてくり抜きたい部分を焦がしていきました。そうして炭化させたところに石の斧を打ち込み、少しずつ削っていったようです。

当時の人々は、火縄をうまく使って巨木を利用していたのです。

貝塚から分かる食生活

次に貝殻についてですが、潮干狩りにいちばんいい季節は、春の大潮のときといわれますね。縄文人も、このベストシーズンを知っていたようです。

その根拠は、発掘された貝塚にあります。そこに残された貝殻を調べると、その貝が採られた季節がわかるのです。

発掘された貝塚

その判断材料となるのは、貝殻の縞模様です。この縞模様は成長線と呼ばれ、樹木の年輪と同様にその貝の成長の跡を示しています。よって、それを子細に調べれば、その貝の生涯がわかるのです。

そこで日本中の貝塚の貝殻の成長線を調べたところ、縄文人は春から初夏にかけて貝を採っていたことが判明しました。縄文人は貝の旬を知っていたのです。

ちなみに、貝塚で見られる貝はハマグリ、アサリ、シジミ、ハイガイ、マテガイ、サルボウ、カキ、キサゴ、アワビ、アカニシ、ツメタガイ、イボニシなど20種類以上もあります。

クジラやマグロまで…

そして、縄文人はクジラまで獲っていたことが明らかになっています。能登半島の真脇遺跡からクジラの骨が発見されているのです。

真脇遺跡は半島の先端から内海に入った入り江の奥にあり、約6000年~2000年前まで縄文集落が存在していました。その集落跡地から、ゴンドウクジラをはじめ、カマイルカやマイルカなどの骨が大量に発見されているのです。

能登半島の真脇遺跡

その骨には石器の銛や槍による傷跡が残っていることから、縄文人は回遊してきたクジラやイルカを丸木舟で湾内へ追い込み、捕獲したと考えられています。

さらに、獲ったクジラやイルカは骨を利用し、油も採取しています。それに加えて、この遺跡からは中部高地や東北地方で生産されたとみられる土器や玉が発見されていることから、クジラやイルカが交易にも使われていた可能性もあります。

縄文人たちは、外洋でマグロなどの大型魚も獲っていたようです。

宮城県の沼津貝塚からは、獲物に突き刺さった先端部分が柄から離れ、ロープによって手繰り寄せて獲物を手に入れるタイプの銛が発見されています。

その銛の大きさから見て、標的は外洋を回遊するマグロだったと考えられ、現代の「大間の一本釣り」のようなマグロ漁を行う漁師がすでにいたのだろうと考えられています。

縄文時代というと、現代の私たちから見れば旧石器時代に毛が生えた程度のイメージしかないかも知れません。しかし、彼らは彼らなりに丸木舟や漁の道具などの最先端技術や、旬の時期に関する知識などを活用し、現代人と変わらない食生活を送っていたのです。

画像:photoAC,Wikipedia

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「約6000年~5000年前の大昔、縄文人は舟をどう造ったのか?クジラ漁など縄文時代の生活と「海」の関わり」のページです。デイリーニュースオンラインは、太古古代縄文人縄文時代食文化カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る