流浪と反逆!室町幕府のラスト将軍・足利義昭の苦難と悲劇に満ちた壮絶人生【中編】 (2/4ページ)

Japaaan

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置) 森末義彰, 谷信一 編『国史肖像集成 将軍篇』(1941 目黒書店)より

鞆幕府の誕生―備後国への下向

1576年、義昭は備後国の鞆の浦(とものうら)に移り住みます。将軍の座を失った後も理想を追い続けました。

この地を選んだ背景には、足利尊氏が光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けた由緒がある場所であり、さらに10代将軍足利義稙が大内氏の支援を得て京都復帰を果たした「吉兆の地」としての意味がありました。

鞆で義昭は「鞆幕府」を樹立し、毛利氏の支援のもと、全国の武士や旧室町幕府の家臣たちに呼びかけて反信長勢力を結集しました。鞆幕府は義昭を筆頭に、かつての幕臣や織田氏と敵対する諸大名の子弟などが集まる総勢100名以上の勢力を持つに至ります。

毛利輝元との協力と鞆幕府の活動

鞆幕府の基盤となったのは、毛利輝元を中心とした西国の勢力でした。義昭は輝元を副将軍に任じ、公儀の軍隊の中核を担わせることで、毛利氏に正統性を与えました。一方で輝元も義昭を庇護することで、西国における政治的地位を強固なものとしました。

義昭は御内書を全国の大名に送ることで、反信長の結集を図ります。特に上杉謙信や武田勝頼に信長包囲網への参加を呼びかけたほか、毛利水軍と本願寺の協力による大阪湾での戦闘(第一次木津川口の戦い)では大きな成果を上げました。

しかし、信長の圧倒的な軍事力や戦略の前に、鞆幕府の活動は次第に限界を迎えます。

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