江戸時代に「狂歌四天王」として活躍した鹿津部真顔とはどんな人物だったのか?【大河べらぼう】 (3/4ページ)
やがて同門の算木有政(さんぎのありまさ)や銭屋金埒(ぜにやの きんらち)らと「スキヤ連」を結成。狂歌界において存在感を発揮していきます。
そして宿屋飯盛(やどやの めしもり)・頭光(つむりの/つぶりの ひかる)・銭屋金埒と並んで狂歌四天王と称されるまでの権威となったのでした。
最盛期では狂歌10首を詠むと銀一両をとるほどの人気狂歌師だったそうです。
寛政6年(1794年)には師匠の大田南畝から「四方」姓の名乗りを譲られ、飯盛と化政期(文化・文政年間)の狂歌界を二分する重鎮となります。
※頭光と銭屋金埒の後日譚についても、改めて紹介しましょう。
高尚過ぎた?孤独な晩年
このころになると、生来の偏屈か鎌首をもたげたのか、狂歌界の奔放無軌道ぶりを批判するようになりました。
「昨今の狂歌には我慢がならん!鎌倉・室町期の精神に立ち返るべきだ!」
いわゆる「昔はよかった」という老害あるあるですが、恐らくは風刺や諧謔を効かせる一方、古式ゆかしき品格も保つべきなどと言いたかったのでしょう?
しかし権威者がこういうことを言い出すと、ジャンルが硬直ひいては衰退してしまいがちです。
案の定、鹿津部真顔が狂歌という名前から変えた「俳諧歌」は高尚?過ぎて一般には受け入れられませんでした。
庶民が求めていたのは親しみの持てる笑いであり、しかめっ面で嗜むような趣味ではなかったのでしょう。
これが結果として狂歌界の衰退を招いてしまいました。