奇こそ我らの誉!江戸時代、尊王論と海防論の先駆者となった「寛政の三奇人」を紹介 (4/4ページ)

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その後の君平は寛政4年(1792)に『今書』で当時の時勢を論じ、享和元年(1801)に寛政8年(1796)から記述していた『山稜志(さんりょうし)』を完成させます。

この書物は幕末の尊王論の根拠とされています。また、『山稜志』で用いた古墳の形(前方後円)が現在の前方後円墳の用語として残っています。

文化4年(1807)にはロシアの脅威や北辺防備の薄さに対して海防を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕府に献上しますが、幕府の警戒を受けることになってしまいます。

その後は江戸に住まいを移しますが、文化10年(1813)に赤痢により46歳で生涯を閉じます。

最後に

当時は誰も思いつかないことをやろうとしたので可笑しな人という意味で奇人と呼ばれていたかもしれません。

しかし、時代が幕末になると3人のやってきたことが報われるようになります。

この時から優れた人という意味で3人は寛政の三奇人と呼ばれてきたと考えられますね。

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