この生き様、どう描く!?平賀源内の遺体を引き取った相棒・平秩東作(木村了)の男気あふれる生涯【大河べらぼう】 (3/6ページ)
平秩東作は享保11年(1726年)3月28日、内藤新宿で馬借を営んでいた稲毛屋金右衛門(いなげや きんゑもん。元尾州藩士)の子として誕生しました。
本名は立松懐之(たてまつ かねゆき)、幼名は八十郎(はちじゅうろう)、後に八右衛門(はちゑもん)と改名します(父の金右衛門から右衛門を襲名したのでしょうか)。
成人して字(あざな。中国風の通称)を子玉(しぎょく)、また東蒙山(とうもうざん)や嘉穂庵(かすいあん)と号します。
まったくいっぱい名前がありますが、有名な平秩東作とは戯号(げごう)で、戯作者として活動する時に名乗りました。
※以下煩雑を避けるため、平秩東作で統一しましょう。
スパイ活動の経験も平秩東作は利発な子として知られ、10歳ごろから和漢の学問を修めるようになりました。
同じ頃に父が亡くなりますが、逆境にも挫けることなく14歳で父の屋号と煙草商を引き継ぎます。
大田南畝(おおた なんぽ)や平賀源内と交流を持ち、その関係は生涯にわたって続きました。
そんな平秩東作は明和2年(1765年)、スパイとして浄土真宗の秘密結社に潜入するミッションを受けたことがあります。
偽装信者となって教団の内情を探り、一味の陰謀を通報。当局の一斉捜索を手引きしましたが、あまりに偽装が上手すぎたせいか、当局に捕縛されてしまったのでした。
厳しい詮議を受けた末に何とか疑いは晴れ、褒美として銀3枚を頂戴したそうです。