幻と消えた平清盛の夢…わずか半年で消滅した「福原京」への遷都の経緯とその失敗の理由【後編】 (3/3ページ)
寿永2年(1183年)には源氏の軍勢が京都に迫り、平氏は都落ちします。西国に逃げる途中、清盛の子・宗盛らは福原の内裏を焼き払いました。
こうして、福原京は名実ともに「消滅」したのです。
遺構から分かること短命に終わった福原京の実態は、考古学的にも徐々に明らかになってきています。
福原京の中心地とみられる祇園遺跡(神戸市兵庫区)では、1994年の調査で、石を敷き詰めた池の遺構が確認されました。ここは清盛の長男・重盛の邸宅だった可能性が指摘されています。
注目されるのは、短期間に2度、庭の池を造り替えた痕跡があったことです。
こうした庭は持ち主の趣味を反映するものですが、それが造り替えられたということは、主の入れ替わりがあったのではないかと考える研究者もいます。
当時は、平安京から移ってきた皇族や貴族に邸宅を明け渡したケースがあったことから、この遺構はそれを裏付けるものだと言えるでしょう。
また、同じ場所で京都製の瓦も見つかりました。京都で作られた瓦が他地域で見つかることはほとんどないため、建物は平安京から移築された可能性が高いです。

その他、福原京跡の一帯では、中国で焼かれた珍しい焼き物も見つかっており、貿易による繁栄を物語っています。
しかし鎌倉時代以降はここでの生活の痕跡が少なくなっており、貴族の邸宅が立ち並んだ「都」から田園地帯に変わっていったことが分かります。まさに諸行無常ですね。
参考資料:
中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia
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