【大河べらぼう】ロシアに強硬姿勢、反幕勢力と交流!蝦夷地に君臨した松前藩主・松前道広(えなりかずき)の豪快すぎる生涯

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」皆さんも楽しんでいますか?
平賀源内(安田顕)や平秩東作(木村了)に絡んで、俄かに注目を集めつつある蝦夷地。そこでは松前藩主・松前道広(えなりかずき)が君臨していました。
果たして彼はどんな人物なのか、その生涯をたどってみたいと思います。
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松前道広は宝暦4年(1754年)1月17日、松前藩の第7代藩主・松前資広(すけひろ)の長男として誕生しました。
母親は八条弁子(八条隆英女)、兄弟には照子、池田頼完、難波武広、秀子、蠣崎広文、波響、玉子、古田信真らがいます。
幼少から文武に優れ、将来を嘱望されたことでしょうが、派手好きで傲慢な性格が玉に瑕。これが後にトラブルの原因となりました。
明和2年(1765年)10月11日に父が世を去ったことで家督を継承します。
同年10月15日には江戸の第10代将軍・徳川家治にお目見え。12月15日に従五位下・志摩守となりました。
藩を傾ける豪遊ぶり
松前藩主の座を継いだ松前道広は、持ち前の豪放さから、一橋治済(ひとつばし はるさだ)・伊達氏・島津氏といった反幕勢力でも構わず交流しました。
また過激思想のために当局から睨まれていた国学者の高山彦九郎(たかやま ひこくろう)などとも交流していたそうです。
付き合うメンバーが派手なら、本人の遊びぶりも派手でした。吉原遊廓で遊ぶのは当然として、気に入った遊女を身請けするなど、カネに糸目はつけません。
本人はそれでいいのでしょうが、家臣たちは主君の遊興費を工面するため、商人たちから借金を重ねることに。
言うまでもなく松前藩の財政は窮乏し、幕府から何度も注意を受けたそうです。よほど派手な遊びぶりだったのでしょうね。
隠居しても血気盛ん
そんな豪放な松前道広の対外政策は、実に強硬なものでした。ロシアから通商要請を受ければ、幕命を名目(タテ)にこれを拒否。現代日本の政治家では考えられない強硬姿勢です。
また寛政元年(1789年)に国後島や目梨郡で勃発したアイヌの叛乱(クナシリ・メナシの戦い)に際しては、交渉の余地を残さずこれを鎮圧。家臣の新井田正寿・松井広次らを派兵しています。
寛政4年(1792年)には家督を長男の松前章広(あきひろ)に譲り、隠居します。
隠居後は通称を大炊頭(おおいのかみ)・美作守に改めましたが、それで大人しくなるタマではありません。
寛政8年(1796年)にエゲレス船プロビデンス号がアプタ沖(北海道虻田郡洞爺湖町)に出没した際は、息子や家臣の反対を振り切って自ら出陣しています。よほど戦いたかったのでしょうね。
永蟄居を命じられる
そんな松前道広は文化4年(1807年)3月26日、幕府から永蟄居(謹慎)を命じられてしまいました。
思い当たる節しかありませんが、お咎めの理由は藩主在任中の強硬姿勢と素行の悪さ。豪快すぎるお殿様にも困ったものです。
この処分は元家臣の讒言があったとも言われ、少なからず恨みや反感を買っていたのかも知れませんね。
文政5年(1821年)3月18日に永蟄居を解かれた松前道広が行いを改めたのかは分かりませんが、天保3年(1832年)6月20日に世を去りました。享年79歳。
終わりに今回は松前藩第8代藩主・松前道広の生涯を駆け足でたどってきました。
豪放磊落な人柄が強烈なインパクトを残す人物でしたが、えなりかずきとは少しギャップが大きいようです。
果たしてこのギャップを、えなりかずきがどう演じてくれるのか、活躍が楽しみですね!
※参考文献:
新藤透『北海道戦国史と松前氏』洋泉社、2016年2月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan