実は『百人一首』の編者は藤原定家ではない!?では本当の編者の正体は?最新学説と教科書の動向を紹介 (2/3ページ)

Japaaan

よって『明月記』で記述されているのは『百人一首』ではなく『百人秀歌』を指すと考えられます。

藤原定家が極めて政治的な人物だったとする考え方は、『明月記』の他の記述からも読み取れます。

例えば、後鳥羽院を念頭に置いたとみられる1227年10月24日の記録には〈神仏に祈っている旨がある。今生において帰りを待つ事、すなわち貴人の御事だ〉という一文がありますが、これは隠岐院ではなく、〈貴人〉とぼかしたのでしょう。

また定家は、後堀河天皇の命で『新勅撰和歌集」を編んだ際、1234年6月にほぼ完成させるも、8月の崩御を受けて改稿し、後鳥羽院と順徳院の歌を草稿から削除したとされています。

後堀河天皇(Wikipediaより)

定家のこうした行動は極めて政治的なニュアンスを含むもので、こうした人物像に照らし合わせると、彼が『百人一首』を編纂したとはちょっと考えられないという結論になるのです。

最近は、高校の国語資料集で〈定家が選んだ百人の歌人の秀歌集〉という記述をやめる動きもあります。

では、一体誰が『百人一首』を編んだのでしょうか?

歌僧・頓阿の存在

たびたび挙げられてきたのは、定家の息子・為家によるものだという説です。

その根拠の一つは、冷泉家時雨亭文庫(京都)所蔵の『百人秀歌』の写本です。その跋文(あとがき)には、『百人一首』は為家が改訂したと明記されているのです。

「実は『百人一首』の編者は藤原定家ではない!?では本当の編者の正体は?最新学説と教科書の動向を紹介」のページです。デイリーニュースオンラインは、藤原定家百人一首カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る