南北朝時代の「南朝」はただの亡命政権ではなかった!その実態と北朝との共存関係が明らかに【前編】 (3/3ページ)

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これらの軍事力は、さすがに幕府には及ばなかったものの、幕府に内紛が起こったとき、反主流派が「敵の敵は味方」として南朝を頼っていたのもまた事実です。

51年には将軍尊氏自らが弟直義に対抗するため南朝の後村上天皇に降伏。翌年にかけて北朝を廃止する形で南北合体が実現しました。一時的とはいえ、南朝の京都回復は都合4度に及びました。

南朝の本拠は、1360年代には大阪湾岸の住吉大社(大阪市)にありました。歌会が特に多く催されたのはこの時期のことです。

後村上が臨席した四天王寺金堂の上棟式に幕府が馬を献上した記録もあり、南北が一定の共存関係にあったことも伺えます。

【後編】では、南北朝の関係と、合体後の動きなどを見ていきましょう。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

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