政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】 (3/6ページ)

Japaaan

本多忠刻と死別し江戸城に戻る

ひと悶着の末に実現した千姫と本田忠刻の結婚でしたが、二人の仲はたいへん睦まじかったようです。

千姫の祖母・市(織田信長の妹)は、戦国時代きっての美女といわれています。千姫はその美貌を受け継いだ美しい姫君であり、忠刻もまた眉目秀麗と称され、二人はまさに美男美女のカップルでした。

浅井長政夫人(市)像(高野山持明院所蔵)wikipedia

1617年、忠刻は西国の要衝である播磨国姫路に移封されます。そして、1618年に長女・勝姫、1619年には長男・幸千代が誕生し、二人の結婚生活は順風満帆に見えました。

しかし、千姫の幸せな時間は長くは続きませんでした。まず、1621年に長男・幸千代がわずか3歳で亡くなります。さらに1626年には、心の支えであった夫・忠刻、そして母・江までもが相次いで亡くなるという、不幸が続いたのです。

忠刻を失った千姫は、本多家を去ることを決意。娘の勝姫を伴い江戸城に入り、出家して天樹院と号しました。

将軍家長老として大奥の組織づくりを行う

江戸城に入った千姫(天樹院)は、勝姫とともに竹橋御殿で暮らしました。しかし、1628年に最愛の娘・勝姫と別れ、一人暮らしとなります。勝姫は父・徳川秀忠の養女として、備前岡山藩主・池田光政に嫁いだのです。

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