政略の駒…”悲劇の姫君”から徳川家のゴッドマザーへ!「千姫」の切なくも壮絶な生涯【後編】 (4/6ページ)
1632年、父である徳川2代将軍・秀忠が薨去し、弟の家光が3代将軍に就任します。
徳川家光像(金山寺蔵、岡山県立博物館寄託)wikipedia
1644年には、将軍家光の厄年を避けるため江戸城を離れていた側室・夏(後の順性院)が、竹橋御殿で綱重(後の甲府藩主)を出産しました。千姫は綱重の養母となり、江戸城大奥において大きな権力を持つようになります。その発言力は、4代将軍・家綱の時代にも衰えることなく、“北の丸様”として大奥の最高顧問的な権威を有していたとされます。
徳川家光といえば、その乳母である春日局が有名です。春日局は1643年に亡くなっていますが、千姫が1626年に江戸城に入って以来、この二人は二人三脚で大奥の組織づくりに取り組みました。
春日局は家光に対して非常に厳格な教育を施しており、特に側室に関する女性問題については、時に行き過ぎと思えるほどの厳しさでした。また、大奥の役職や法度を整理・拡充し、将軍の権威を背景にして、幕府の最高職である老中をも凌ぐ権力を持つ組織を完成させました。
春日局がこのように強権的な手段を行使できたのは、その背後に千姫(天樹院)の存在があったからだといわれています。