江戸時代のキャリア官僚「町奉行」過労死も招くほど驚きのブラック労働だった理由 (3/4ページ)
町奉行の官位は、小大名や大身の旗本と同じ従五位下で格式は高かったようです。役高は享保8年(1723)に定められた「足高の制」により、3000石となっています。
町奉行は高い能力を求められるため、1000石に満たない旗本が抜擢されることもあり、在職中は禄高の差額分=足高が支給されていました。
ストレスフルで過労死将軍が能を見学する行事「町入能」では、名主・家主ら約5000人の入城が許され、町奉行の良し悪しを自由に口にすることが許されていたとされています。
町奉行はプレッシャーがかかるストレスフルな役職であり、そのため短期間で交代する者や在職中に死去する者も少なくありませんでした。
例えば、『鬼平犯科帳』に登場する北町奉行・初鹿野河内守は実在の人物ですが、この人は町奉行在職中に死去しています。おそらく過労死のようなものでしょう。
大岡忠相のように20年近くにわたって町奉行を務めた例もありますが、おおむね2~3年、長くても5~6年で異動することがほとんどでした。現在でいうところのキャリア官僚のようなものです。