『べらぼう』実は田沼意知には息子が!意知の死後、嫡男・意明が背負った没落する田沼家の悲劇 (3/4ページ)
天明7年(1787年)に意明が家督を継いだ時には2万7千石と半分以下になっていました。
意次に代わって政権を握った松平定信の追い討ちは続き、意明は陸奥下村藩(福島県福島市)1万石へ転封されてしまいます。
しかも自分の所領であるにも関わらず、現地へ赴くことは許されません。力を蓄えて謀叛を起こすことを警戒されたのでした。
また大名でありながら、将軍・徳川家斉への御目見(おめみえ)や官位の叙任も受けられない有り様です。
やがて寛政5年(1793年)に定信が失脚すると所領への下向や叙任(従五位下、下野守)などが許されるようになりました。
寛政8年(1796年)に大坂定番(または加番)を拝命します。これらの役職は大坂城の番役でしたが、意明は大坂へ赴任することはありませんでした。
そして同年9月22日、24歳で世を去ります。喜姫との間に子供はおらず、弟の田沼意壱を養子として家督を継がせました。