【大河べらぼう】誰袖花魁を身請けするも横領が発覚「土山宗次郎(栁俊太郎)」が辿った非業の末路 (3/6ページ)
土山宗次郎は宝暦6年(1756年)に17歳で家督を継ぎますが、役は得られず小普請(こぶしん。無役)となりました。
小普請は決まった役がないため収入が低く、宗次郎も経済的には苦しかったものと思われます。
しかし宗次郎は研鑽を重ね、宝暦10年(1760年)に21歳で勘定(かんじょう)に抜擢されました。
勘定とは勘定奉行の配下で、勘定所に勤務します。
【勘定所の役職序列】
勘定奉行-勘定組頭-勘定-支配勘定-支配勘定見習・支配勘定出役
※別に全般の監査担当として、勘定吟味役-勘定吟味方改役が存在。
勘定として職務に精励し、その才覚が認められた宗次郎は、明和6年(1769年)に評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)を拝命します。
評定所とは幕府の最高裁判所と政策立案を司る機関で、留役はその書記官として、勘定所から多くの者が出向しました。
留役は知識と経験を積んでいることから、評定所の実務に大きな影響を及ぼしており、宗次郎も大いに腕を振るったことでしょう。
やがて安永5年(1776年)には勘定所へ出戻って勘定組頭(かんじょうくみがしら)に昇進し、実務経験と知識を基に幕府財政と田沼政権を支えました。