【大河べらぼう】誰袖花魁を身請けするも横領が発覚「土山宗次郎(栁俊太郎)」が辿った非業の末路 (4/6ページ)

Japaaan

ロシア対策と蝦夷地調査を提言

蠣崎波響「夷酋列像」より、アッケシ乙名ニシコマケ(泥湿穀末決)。

田沼政権を支える一人として頭角を現した宗次郎は、天明3年(1783年)に工藤平助『赤蝦夷風説考(あかゑぞふうせつこう)』を読み、対ロシア政策の重要性を田沼意次に提言します。

翌天明4年(1784年)には荒井庄十郎(あらい しょうじゅうろう)と平秩東作(へづつ とうさく)を蝦夷地調査に派遣しました。

両名の報告を受けて天明5年(1785年)には上役の松本秀持(まつもと ひでもち)がより本格的な蝦夷地調査を指示。最上徳内(もがみ とくない)らが派遣されています。

【蝦夷地調査隊・主要メンバー】

隊長格:佐藤行信(玄六郎) 普請役:菴原宣方(いはら のぶかた。弥六) 普請役:青島政教(俊蔵) 普請役:皆川秀道(沖右衛門) 普請役:山口高品(- ただのり。鉄五郎) 平士:引佐新兵衛(いなさ -) 平士:大石逸平(- いっぺい) 平士:大塚小一郎 平士:鈴木清七 平士:里見平蔵 平士:最上徳内

※50音順(読み方は諸説あり)

調査は天明6年(1786年)まで続き、調査隊を東西二手に分けて蝦夷地を一周。また樺太や国後島まで到達したと言います。

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