弟を謀殺、父の葬儀で愚行!織田信長の天下人のイメージが覆るありえない破天荒エピソード (2/6ページ)

Japaaan

弟も抹殺!?

1557年には弟の織田信勝(信行)を病気と称して呼び出し、謀殺。これも破天荒という言葉では済まない、とんでもないエピソード。

信長には絵に描いたような「いい子」の弟・信勝がおり、うつけ者の兄・信長と違って家臣の信頼も厚く、信勝を当主に推す動きがありました。

実際に父・信秀の死後に、当主の居城を継承したのは弟信勝。一応当主は嫡男の信長だったにも関わらず、次第に信長に対して「俺こそが織田の当主だ!」といわんばかりに独自の動きをし始めた弟・信勝の行動は、もはや信長の目に余るものがありました。

1556年、信行は柴田勝家らとともに、信長と敵対する意思をはっきりと表し、両者は稲生で激突します。結果は信長側の勝利。その年の11月2日、仮病を装った信長を見舞いに来た信行は、清洲城内で殺害されました。

桶狭間の戦い

1560年、27歳の信長の尾張統治は弟との内紛などのせいでいまだ揺らいでおり、尾張中心部と知多半島の間に位置する鳴海城、沓掛城、大高城などが東海地方最大勢力、今川氏の手に落ちてしまいました。

5月、今川義元は自ら大軍の指揮を執り尾張に向かって出陣、沓掛城に入城。やがて砦を攻撃され、どうするか紛糾した挙句、織田軍は2000人の兵で出撃。敵のいる東南の桶狭間の方面に進軍を開始しました。

13時ごろ、視界を妨げるほどの豪雨が降ります。織田軍はこの天気を味方に、今川義元に奇襲を仕掛けます。今川軍は約2万人でしたが分散していたため5〜6千人。

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