『べらぼう』寛政の改革は失敗?松平定信が憧れた祖父・徳川吉宗との違いは何だったのか?[前編] (4/6ページ)
父の意向により吉宗は幼少期、家臣の家で養育されていた。しかし、紀州藩主であった二人の兄(綱教・頼職)と父・光貞が、わずか半年の間に相次いで病死するという異常事態が発生する。これを受け、1705年(宝永2年)、22歳の若さで紀州家を相続し、藩主に就任することとなったのだ。
祖父・吉宗の生い立ちと比べれば、孫の定信の母は御三家筆頭である尾張藩の重臣の娘であり、母方の血筋には何の問題もなかった。
定信は1759年(宝暦8年)、吉宗誕生から75年後に生を受けた。6歳のときに重病を患い危篤に陥ったものの、治療によって一命を取り留めるなど、幼少期は病弱であったと伝わる。
しかし、幼名の「賢丸(まさまる)」が示すように、幼い頃から聡明で知られ、田安家はもちろん、第10代将軍・徳川家治の後継者、すなわち将軍の候補者となることを期待されて育った。
このように、定信は祖父・吉宗と比べると、はるかに恵まれた「お坊ちゃん育ち」であったのだ。
