奈良・明日香村「菖蒲池古墳」の謎──被葬者は、蘇我蝦夷・入鹿か、それとも石川麻呂か? (3/5ページ)

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さらに、梁には二個、桁には四個、土居桁の長辺には四個・短辺には二個の、短冊形の浅い彫り込みが施されている。加えて、蓋の頂部平坦面には縦長の浅い溝状の彫り込みが設けられている。

一方、玄室奥の石棺もほぼ同様の形態を示すが、蓋上部の彫り込みや長方形の装飾は見られない。ただし、両石棺とも内面全体に黒漆と朱が施されている。いずれにせよ、菖蒲池古墳の2基の家形石棺は、終末期古墳の中でも極めて精巧な造作を備える点で注目される。

被葬者は、蝦夷父子か、それとも石川麻呂父子か?

蘇我本宗家と称される稲目・馬子に継ぐ蝦夷・入鹿親子が、大化の改新の発端となる「乙巳の変」によって滅亡したのは、西暦645年のことである。

『日本書紀』によれば、皇極天皇の飛鳥板葺宮において、中大兄皇子・中臣鎌足らが入鹿を暗殺したのは7月10日であり、翌11日には蝦夷が邸宅に火を放ち、自害して果てたと記されている。

大化の改新(談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』)

その記述によると、入鹿が暗殺された当日は激しい雨が降りしきり、宮廷の庭に水があふれるほどであったという。斬首された入鹿の遺骸は庭中に打ち捨てられ、筵と蔀で覆われた。その後、中大兄皇子の意向により、蝦夷とともに埋葬が許されたと伝えられる。

しかし、焼け落ちた邸宅の中から蝦夷の遺骸を発見できたのだろうか。また、「両人ともに」とあるのは、蝦夷と入鹿が同じ場所に、共に葬られたと解釈してよいのだろうか。

「菖蒲池古墳」の築造年代は従来、640年前後と考えられていた。だが、約10年前の2015年(平成27年)、隣接する飛鳥養護学校の一画から、一辺70メートルという巨大方墳「小山田古墳」が発見された。

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