【べらぼう】後に松平定信を転落へと追い込み…本多忠勝の血を引く老中「本多忠籌」の信念と結末 (2/5ページ)
【本多忠籌 略系図】
……本多忠勝-本多忠政-本多忠義-本多忠常=本多忠直-本多忠如(ただゆき)-本多忠籌-本多忠誠(ただしげ)-本多忠知-本多忠徳(ただのり)=本多忠紀(ただとし)=本多忠伸……
※本多忠勝について:
名前の由来は「ただ勝つのみ」。徳川家康を支えた四天王の一人、本田忠勝とは!?16歳となった宝暦4年(1754年)8月29日、父の隠居に伴って家督を継ぎ、天明7年(1787年)に若年寄となりました。
そんな忠籌は学問を好んで佐藤玄明窩(げんめいか)に経世済民(経済学)を、また中沢道二(どうに)に石門心学を学びました。
あわせて領民の教化に努め、善教舎(藩校)や郷蔵(非常用備蓄倉庫)を設置、また堕胎の禁止などを行います。
こうした好学の姿勢が定信との親和性を高め、親交を通じて幕閣入りのキッカケとなったのでしょう。
