朝ドラ「ばけばけ」母国での壮絶な過去…レフカダ・ヘブンのモデル、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)苦難の前半生 (3/4ページ)

Japaaan

以降、神話や民話、民間伝承などに傾倒。のちの日本での文筆活動の原点がここで生まれています。

1863年、ハーンはフランスの神学校に移り、のちにイギリスのダラム大学セント・カスバーツ・カレッジに入学しました。

やがてここで、ハーンの人生を決定づける出来事が起こります。

1863年、カレッジの回転ブランコで遊んでいる最中、ロープの結び目が左目を直撃。光を失った左目は、白く濁るようになりました。

以降、ハーンは自身の写真を撮る際には顔の左側が写らないようにしていたといいます。このコンプレックスは、ドラマでも見られましたね。

困窮と漂白の旅の末に辿り着いた国

ハーンの人生には、さらなる試練が待ち受けていました。

1866年、父・チャールズが西インドからの帰国途上で病死。加えて大叔母・サラが破産を遂げてしまいました。

翌1867年、ハーンはやむなくダラム大学を退学。1869年にイギリスのリヴァプールから移民船に乗って、アメリカ合衆国のニューヨークへ渡ります。この時、ハーン19歳でした。

しかし当時のハーンは、所持金もなく頼れる家族もいない状況です。シンシナティへへ向かったハーンは、ホームレス同然の生活を送ることとなりました。

やがて印刷屋のヘンリー・ワトキンの世話になることになります。ここでハーンは印刷術を獲得し、ワトキンを終生慕うこととなります。

1871年、大叔母のサラが死去。送金されるはずだった遺産500ポンドが届かず、以降アイルランドの親戚と縁を切る道を選びます。

しかしハーンは、持ち前の文章術を磨き上げ、さらなる飛躍を遂げていきます。

1874年、ハーンはシンシナティ・エンクワイアラー社の正式社員として勤務。週刊誌の創刊や事件記事のルポで名を挙げました。

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