【べらぼう】実は子だくさん!ハメられ失脚した松平定信、実際のプライベートや妻子たち (4/6ページ)

Japaaan

父・定信の後継者として伊勢国桑名藩(三重県桑名市)を統治するも財政難や生田万の乱(大塩平八郎の乱の余波)などに苦しみ、48歳で世を去ります。

次男・真田幸貫 生没:寛政3年(1791年)9月2日生~嘉永5年(1852年)6月8日没 母親:貞順院 幼名:次郎丸 身分:信濃国松代藩主 官職:豊後守ほか

本当は長男でありながら母親の身分によって次男・庶子扱いとされ、信濃国松代藩(長野県長野市)藩主・真田幸専(ゆきたか)の養子となりました。

やがて天保の改革が始まると水野忠邦から老中に抜擢され、幕政改革の一翼を担うようになります。

松代藩政においても、佐久間象山ら洋才の持ち主を多く登用するなど改革を進めますが、晩年には方向性をめぐり重臣たちと対立するようになってしまいました。

三女・松平烈子(清昌院) 生没:不詳 母親:隼姫 伴侶:諏訪忠恕(すわ ただみち)正室 実子:諏訪忠誠(ただまさ)ほか

信濃国高島藩(長野県諏訪市)の第8代藩主・諏訪忠恕の正室として迎えられ、諏訪忠誠らを生みます。

四女・松平庸子 生没:不詳 母親:貞順院 伴侶:松平輝健(てるたけ)正室→前田利幹(としつよ)継室 実子:なし

はじめ上野国高崎藩(群馬県高崎市)の世嗣である松平輝健の正室として迎えられるも文化8年(1811年)に先立たれてしまいました。

後に越中国富山藩(富山県富山市)の第9代藩主・前田利幹と再婚。しかし子宝には恵まれず、次々と子供を生んだ側室たちに引け目を感じていたかも知れません。

五女・松平蓁子 生没:不詳 母親:貞順院 伴侶:松浦熈(まつら ひろむ)正室 実子:なし

肥前国平戸藩(長崎県平戸市)の第10代藩主である松浦熈の正室として迎えられます。

特に子供が生まれたという記録はないものの、生母不明の女児ら(日野資宗室、中山忠光室)を生んだ可能性はあるかも知れません。

六女・実名不詳 生没:不詳 母親:隼姫 伴侶:不詳 実子:不詳

『寛政重脩諸家譜』には、その存在と母親のみ記録されており、詳細は不明です。

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