“奇兵隊=高杉晋作”は誤解。「奇兵隊」設立の経緯と高杉の動向を並べて見える驚きの史実 (3/4ページ)
指揮官は下級武士出身者が多く、伊藤俊輔(後の伊藤博文)は力士隊の隊長を経験しています。これらの部隊は、まとめて長州藩諸隊と総称されています。
もちろん奇兵隊の総督は高杉晋作が務めることになったのですが、なんと結成三ヶ月で罷免されてしまいます。
奇兵隊と、藩士のみからなる撰鋒隊が相互に罵り合うなどのトラブルが続いて対立し、刃傷沙汰に発展してしまったのです。これを教法寺事件といいます。
創設早々に高杉は奇兵隊の主導権を失っていたのです。総督の地位はその後、河上弥一、赤禰武人へと継がれました。総督が赤禰だった際、軍監だったのが山県狂介(後の山県有朋)です。
そして1863年に起きた八月十八日の政変で長州藩が京都から追放され、さらに1864年1月には高杉晋作は脱藩し京都に潜伏します。そんなこんなで忙しく、高杉は奇兵隊の組織化には関わっていません。
挙兵時も浅い関係その後、外圧によって高杉は復活します。