幕末の四大人斬り “人斬り半次郎”、実はほとんど人を斬っていない!歪められた実態と本当の姿 (3/4ページ)
彼が軍事的な指揮官として頭角を現すのは、戊辰戦争の端緒となった鳥羽・伏見の戦い以降です。
西郷の下で城一番乗りを果たす先鋒隊長に抜擢され、その後の彰義隊との戦闘や会津攻めにおいても、特使としての交渉役や実戦指揮で華々しい戦果を挙げました。
西郷や大久保利通といった巨頭の影に隠れがちではありますが、もし彼が他藩の出身であったならば、それだけで歴史に名を残す傑出した人物として扱われていたことは間違いありません。
明治新政府においても、彼は陸軍少将という要職に就きました。
そして北方の守りとして札幌鎮台の設置を提言したり、陸軍裁判所所長を務めたりと、国家建設の重要課題に精力的に取り組んだのです。
こうした点からも、桐野が一介の剣客風情には到底務まらない行政手腕を持っていたことが伺えます。
独立した棟梁その後、征韓論争に敗れた西郷らが下野すると、桐野もまた職を辞して鹿児島へ戻り、私学校の設立や吉野開墾社の指導に携わることになります。
政府側はこの私学校を不平士族の巣窟として警戒しましたが、一方の西郷らには、来るべき外国との戦いに備えた近代的な兵力育成という目的があったとも指摘されています。
しかし、政府による密偵の派遣や弾薬の接収、さらには西郷暗殺計画の風聞が流れるに及び、両者の緊張は極限まで高まっていきました。