もしも英雄・伊達政宗が“10年早く”生まれていたら、本当に天下を獲れていたのか?を検証・考察 (4/5ページ)

Japaaan

南に蘆名氏 西に上杉氏 東に相馬氏 北に最上氏、大崎氏

※ほか畠山氏、二階堂氏などがひしめいています。

いずれも強敵揃い、果たして政宗は彼らとどう対峙したのか……一概にこうとは言い切れません。

実際には天正17年(1589年)時点で陸奥国中部と南西部、出羽国南東部(宮城県南部・山形県南東部・福島県西部)を領し、全国的にも屈指の勢力を築き上げました。

ここに十年のアドバンテージを加えたら、現代で言う宮城県と福島県の全域、そして山形県の南部と岩手県の南部くらいは掌中に出来たのでしょうか。

実際に天下を狙えたタイミングは?

伊達政宗が天下を狙うなら、秀吉が世を去ったタイミングが最適であったと言えよう(画像:Wikipedia)

しかし天正18年(1590年)時点では、それしきの勢力を持っていたところで、秀吉に太刀打ちすることは到底できません。もちろん北条氏と連携しても同様です。

仮定に仮定を重ねる形になりますが、もし政宗が本気で天下を狙うのであれば、まずは秀吉に臣従して本領安堵≒勢力温存を図るのが得策でしょう。

そして高齢の秀吉が世を去ったタイミングで、家康につくか、あるいは家康を倒すかを判断します。ここが重要なタイミングと言えます。

もし家康を倒す決断をして、幸運にも倒せた場合、幼き豊臣秀頼の後見役におさまらなくては始まりません。

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